第5回
佐久間庸和
「教養こそ真の富である」

 

 これからの時代、各人にもっとも求められるものは教養ではないでしょうか。
 経営学者のピーター・ドラッカーは、「21世紀社会は知識社会である」と述べました。たしかにその通りでしょう。しかし、一般に考えられている知識社会の「知識」は「情報」に近いニュアンスです。本当の「知識」とは、「教養」につながるものでなければなりません。
 そのドラッカーは「マネジメント」という概念を発明した人でもありますが、「マネジメントとは伝統的な意味における一般教養である」との言葉を残しています。
 それは、知識、自己認識、知恵、リーダーシップという人格に関わるものであるがゆえに教養であり、同時に実践と応用に関わるものであるがゆえに教養であるというのです。「衣食足りて礼節を知る」というのがこの連載のタイトルですが、「礼節」も広い意味での教養に含まれることは言うまでもありません。
 日本における帝王学の第一人者であった安岡正篤によれば、中国の歴史では『三国志』が面白く、日本の歴史では幕末維新の話が面白いそうです。なぜ面白いかというと、その前の時代である後漢200年と徳川260年が世界史でも最高の文治社会だったために、登場人物がすべて一流の教養人であり、彼らの言葉のやりとりにすべて含蓄(がんちく)があり教養があるからだそうです。
 後漢の初代光武帝は「天下いまだ平らかならざるにすでに文治の志あり」と言われた人で、学問を大いに奨励したのみならず、全国にすぐれた学者や賢人を求めて政府に登用しました。そのために、『後漢書』は教養書として後世珍重されたのです。
 江戸時代もまた、大坂城落城の後は武をもって立つ道が閉ざされたため、学問だけが出世の道となりました。どんな貧しい書生でも勉強さえすれば、新井白石や荻生徂徠(おぎゅうそらい)のように国の政治をあずかる立場にも立てる社会だったのです。だから、若者の知識への貪欲(どんよく)さはその後の時代とは大きく違いました。
 江戸時代といえば、ここ最近、「江戸しぐさ」が大変なブームとなっています。江戸の町衆(まちしゅう)の間に広まった思いやりの作法ですが、そのキーワードに「お心肥(しんこやし)」があります。まさに江戸っ子の神髄を示している非常に含蓄のある江戸言葉のひとつです。
 その意味は、頭の中を豊かにして、教養をつけるといった意味です。ただし、江戸っ子のいう教養とは「読み書き算盤(そろばん)」だけのことではありません。本を読むだけではだめで、実際に体験し、自分で考えて、初めてその人の教養になるのです。人間はおいしいものを食べて身体を肥やすことばかりになりがちですが、それではいけません。立派な商人として大成するためには人格を磨き、教養を身につけること、すなわち心を肥やすことが大切なのです。
 教養は、人格を高め、人間的魅力をつくります。教養は人間の心を肥やすもの、すなわち心の栄養、心のカロリーでもあるのです。私たちも、教養を身につけて、心を太らせたいものです。
 最後に、現在流行中のスピリチュアルな世界観によれば教養は「あの世」にも持っていけるそうです。死んだら人は魂だけの存在になるので、生前に身につけた知識やボキャブラリーだけが求められるのです。
 現金も有価証券も不動産も宝石もあの世には持っていけません。それらは、しょせん、この世だけの「仮の富」。教養こそが、この世でもあの世でも価値のある「真の富」なのです。