わたしは、1986年(昭和61年)の冬に日本儀礼文化協会発行の「はあとぴあ」の編集長を引き受けることになりました。当時、わたしは早稲田大学の3年生でした。
それまでの「はあとぴあ」は、礼法をはじめとして、茶道、華道、装道などの芸道や、武道や、歌舞伎などの古典芸能といった日本伝統文化を中心にした誌面づくりでした。
わたしは、これらの伝統に加えて、いつもオシャレでハッピーな雑誌にしたいと考え、編集方針を一新することにしました。当時、アメリカのエグゼクティヴに"ヤッピー"というライフスタイルがブームとなっており、わたしも「はあとぴあ」の理想をわかりやすくするライフスタイルを提案しようと思い、あれこれ頭をひねったものです。
わたしは、"ヤッピー"のクールで斜にかまえたようなところが気にくわなかったため、ウェットでストレートな"はあとぴあん"というライフスタイルをイメージしました。
それを8つに分けて発表したのが「はあとぴあん宣言」です。
わたしが新編集長となって初めて変身第1号を出したのは、1986年の4月1日でした。
まだ印刷機のぬくもりが残る1冊を手に取った時の感動は忘れられません。
わたしの「はあとぴあん宣言」が、ついに活字になったのです。
反響は予想を上回って、たくさんのおほめの言葉を頂戴しました。「はあとぴあんのようなライフスタイルを目標としたい」という読者からのお便りが届くたびに、大いに恐縮したものです。もちろん、大学生という身分の若造がライフスタイルを語るなど100年早いのでしょうが、それでも"はあとぴあん"は、わたし自身の理想の人生イメージの集大成でした。以下が、22歳のわたしが「こんなふうに生きたい」という想いを書いた「はあとぴあん宣言」です。
ハイタッチ社会のキーワードとなるウェルビーイング(well-being)は、幸福な存在、相手を幸福にする存在の意である。ウェルビーイングは、WHO(世界保健機構)憲章における、健康の定義に由来した思想である。その定義とは、「健康とは、たんに病気や虚弱でないというだけでなく、身体的にも精神的にも社会的にも良好な状態」というものだが、従来、身体的健康のみが一人歩きしてきた。ところが、文明が急速に進み、社会が複雑化するにつれて、現代人は、ストレスという大問題を抱え込んだ。ストレスは精神のみならず、身体にも害を与え、社会的健康をも阻む。そこで、全く新しい心身医学という学問が、日本心身医学協会会長の池見酉次郎博士によって、提唱された。心身医学は、真の健康をめざす21世紀の医学であり、その真の健康を得た状態が、ウェルビーイングである。健康は幸福と深く関わっており、人間は健康を得ることによって、幸福になれる。ウェルビーイングは、自らが幸福であり、かつ、他人を幸福にするという人間の思想を唱ったものだ。
ウェルビーイングは、新しい科学であり、新しい哲学であり、新しい宗教である。ウェルビーイング、それは、すなわち、はあとぴあんである。
マナーは社会生活、とりわけ人間関係を円滑にするものである。洋食のマナーを例にとれば、その窮屈さや無意味さをあげ、料理はただおいしく食べればいいのだと言う人が多い。しかし、この作法をマスターしきった者にとっては、実際食事をする時、すでにマナーについて気にすることはなくなっているので、順序よく、相手を不快にさせることなく食事が進められる。つまり、関心はマナーより、食事の相手に対してむけられるから、相手との会話や相手に対する心づかいも十分でき、また食事をじっくりと味わう余裕もある。
いっぽう、もしマナーを知らずに、人前で洋食を食べねばならないことにでもなれば、どのフォークから使うか、次は何に手をつければよいかなど気になって、マナーを身につけていないコンプレックスで、他人が自分の食べ方を内心笑っているのではないかという気分になってくる。そうなれば、食事の相手も、料理の味もわからない心理状態になってくる。このようにマナーは精神的、社会的健康のために不可欠なのである。
また、「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。これを今風に解釈すれば、衣はファッション、食はグルメ、そして礼節はマナーとなる。美しい立ち居ふるまいや、繊細な心づかいは、人間の高次の欲求なのだ。来たるべき1億総レディス・エンド・ジェントルメン時代において、はあとぴあんは、マナーの達人、そして人生の達人になるのである。マナーのことなら、はあとぴあんにまかせなさい!
人に奉仕する者をサーバントという。本来、召使いというネガティブなニュアンスがある言葉だが、ここではあえて使った。サービスという言葉からまず連想するのは、ホテルやレストランなどの飲食店で受けるサービスであろう。最近はサービスのしっかりした店が少ないといわれる。ある喫茶店に入った時、コップに水がなくなったのに、一向に注ぎに来ない。これは店の教育がなっていないこともあろうが、ウェイター自身がサービスそのものを軽視していると思ってよい。また、逆にコップが半分くらい空になったぐらいで注ぎに来られたのでは、ひんぱんになり、客の方が落ち着かない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。サービスにもセンスが必要で水を注ぐタイミングを感性によって測らなければならないのである。
すなわち、一流のサービスが出来る人は感性豊かな人である。
感性も大切だが、サービスの基本は愛である。人は誰でも恋人には無私の愛を捧げ、相手を喜ばせたいと思うものだが、それを万人に広げるという博愛の精神が真のサービスを生む。他人から奉仕を強制させられれば奴隷であるが、人が喜ぶのを見て喜ぶ、人の幸福を自分の幸福と感じる、そんな、サービスの醍醐味を知った者、それはもう神に近い位置にいる。はあとぴあんは、偉大なるサーバントである。
マナーの基本は相手に迷惑をかけない、不快な気分にさせないという心である。それは当然であるから、はあとぴあんは、そこから一歩進んで相手を楽しませ、いい気分にさせなければならない。エンターティナーの大原則は、明るさである。
何となくあの人と一緒にいると楽しくなる。そんな小さな太陽が、あなたの周囲にもいるはずである。また、欧米人のパーティに行くとよくわかるのだが、彼らの陽気さにくらべて、日本人はどことなく陰気だ。これはシャイな国民性だから仕方ないという人もいるが、それでは国際化社会に通用しない。相手に暗いと感じさせることは、それだけ悪なのである。
いつも、気のきいたジョークでも言って相手を笑わせたいものだ。
ところで、現在若い女性に一番モテる人種は、コピーライター、デザイナーなどの、いわゆるクリエイターだという。なぜ、モテるのか。それは、別にその職業自体がカッコいいからではなくて、彼らはとにかく話題が豊富だからだ。彼らは情報が生命だからよく勉強している。また、少し話せば、相手がどのような話を聞きたがっているのかを感じると感性を持ち合わせているのだ。明るさ、話題の豊富さ、そして会話のセンス、これらを備えて1人前のエンターティナーになれるのである。いつも心に太陽を!はあとぴあんは、エンターティナーである。
人はなぜ、ダブルのスーツを着るのだろう、なぜ、ネクタイをしめるのだろう。
着るという目的のためだけなら、トレーナーでも何でもよいはずだ。まして、スーツならシングルで十分だ。ネクタイなど邪魔にしかならない。答えは、ダブルのスーツを着たり、ネクタイをしめたりするのが楽しく、いい気分になれるからである。人間はホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)といわれる。遊ぶから、人間なのである。この世が実用性でしか語られなくなったら暗黒である。でも、おしゃれになるには、服装だけではダメである。よく、美形でファッション雑誌から抜け出したような格好をしているのに、全然美しさを感じさせない人がいる。それは、姿勢が悪かったり、言葉づかいがなっていなかったりすることが原因しているケースが多い。その場合、流行の先端をいくファッションが下品に見えてくる。
また、教養というのも大切な要素であり、さらに、自分の生き方の美学というコンセプトをしっかり持たなくてはならない。そしてそれには、美しいものを美しいと感じる感性が必要だ。感性を磨くトレーニングの一例は、美術館に通うことだ。名画を目の前にしても、ちっとも美しいと感じず、自分の感性に自信をなくしても、何度も鑑賞する。そのうち、「あっ、美しい」と思える時が必ず来る。感性が教育されたのである。そうなると、常に美しくありたいと思い、その心が行動を洗練させ、外見に美を表わすことが可能になる。
はあとぴあんは、心身ともにおしゃれな人である。
祭りは楽しい。巨大なハレの空間と時間の中で、人々は生の感動を体感する。
日頃は忘れている共同体のアイデンティティが、祭によって耐え切れないほど実感される。我々の祖先は、神をおそれ、自然をおそれて、そして愛した。その感情が潜在意識の中から、よみがえってくるような不思議な魔力が、祭りにはある。
そして、本当の祭り好きは、自ら祭りを創り出そうとする。
メディアとしてのイベントは、ポスト・テレビジョンといわれる。活字、音声、映像、かつてのメディアはすべて、一方的なマスコミュニケーション手段であった。イベント、それも意志の相互伝達が可能なものだけが、メディアとして生き残れるのかもしれない。
また、企業においても、イベントの企画、演出、実行のできる「祭りをつくれる男」が必要とされている。さらには、今後家庭内でもイベントは不可欠であり、家族そろって映画に行くとか、食事に出かけるとかのファミリー・イベントを行わない亭主は、必ず離婚されるといわれている。世はまさに、イベント時代なのである。
日本は四季があり、それに伴った豊富なイベントのバリエーションがある。そして昔から、祭りの音頭取りができる人間は、人々から慕われ、共同体のリーダーとなった。
はあとぴあんは、イベント・メーカーすなわち、祭師である。
プロモーションビデオの出現によって、音楽と映像が不可分となったように、単一文化から平面時代に入った。音楽、映像、演劇、ファッション、建築、料理そしてマナー、今や文化は1つの世界にとらわれず、立体形で語られる。複数文化をふまえて新しい文化が生まれるともいえよう。はあとぴあんは旺盛な好奇心の持ち主であり、多趣味である。本を読み、音楽を聴き、映画を観る。また、従来西洋的文化が主流を占めてきたが、茶道や華道などの日本的文化や、ヨガ、気功などの東洋的文化をもマスターしている。
これからは余暇が増えるといわれる。暇にあえぐ人が多くなってくるだろう。現在でも休日に何もすることがなくて休日を恐れるホリデー・コンプレックスの会社員がいるという。そうならないためには、自分ひとりでもハレの時間が持てるセルフ・エンターティナーにならなくてはならない。その時、多種の文化に慣れ親しんでおけば、退屈など絶対しないし、それどころか、自分に合った文化を深く追究していくことができて充実した時間が持てる。現在、各種カルチャーセンターが盛んだが、カルチャーセンターに行った時だけやる人が多い。常日頃から文化のある生活をしておけば、心にゆとりができ、顔も知的になってくる。
はあとぴあんは、文化の八方美人である。
心の時代といわれて久しい。ある新聞社のアンケートによれば、現代の若者は神を信じる者が大多数であるという。これは、少し前までは考えられなかったことだ。世紀末が近づくと、人は刹那的か求心的かどちらかになるらしいが、なるほどと納得してしまう。
ところで、1985年は音楽において世界的なチャリティープロジェクトが2つ組まれた。1つは、イギリスのバンド・エイドであり、もう1つはアメリカのUSAフォー・アフリカである。さらに両者は合体してライブ・エイドというスーパー・イベントを実現した。若者にとってミュージシャンこそは現代の神であり、ミュージシャンが彼らのオピニオン・リーダーになることも珍しくない。その意味で、これらのチャリティーが若者に与える影響は大のはずである。バンド・エイドに参加したカルチャークラブのボーカル、ボーイ・ジョージはこう言った。「大切なのは政治をこえた思いやりの心なんだ」。思いやりの心、奉仕する心・・・・・・心こそ、「はあとぴあ」の追い求めてきたものだ。第5世代コンピュータさえも持ちえないもの、それが心である。教育も躾も心からだ。はあとぴあんは、心の理想郷はあとぴあの住人なのである。
お気づきのように、「はあとぴあん宣言」は各内容が互いにクロスオーヴァーしています。
はあとぴあんは、一言でいえばウェルビーイングであり、3つの側面をもっています。それは身体的側面、精神的側面、そして社会的側面です。はあとぴあんは、身体的に健康であって、またそのために日々、体力増強につとめます。また、日頃からさまざまな文化に接し、思いやりとやさしさを持った精神的に健康な人間です。さらに、社会的健康を得るために明るさを心がけ、マナーを身につけ、話題を豊富に持って、人にサービスすることを忘れません。つまり、人間の内面的充実と外面的充実は表裏一体であり、また、相互に補完し合うものであるといえます。はあとぴあんになるためには、天性のものを必要としません。誰でも努力すればなれるのです。万人がはあとぴあんになった時こそ、この国が、いや全世界が心の理想郷はあとぴあになる時です。さあ、あなたも、はあとぴあんになりませんか?
今読み返してみると「若書き」そのもので気恥ずかしくもありますが、意外と現在に至るまでブレずに持ち続けている考えだらけであることに気づきます。
もちろん時代背景に影響されていますので、古臭い表現もありますが、それでも、今の自分という人間を形成する初期設定のようなものがここにあります。
理想の人間像を孔子は「君子」と呼び、ドラッカーは「エグゼクティブ」と呼びました。
わたしにとっての「君子」や「エグゼクティブ」が「はあとぴあん」です。
やはり、「はあとぴあん宣言」は、わたしにとっての永遠の目標なのです。
なお、この「はあとぴあん宣言」は処女作『ハートフルに遊ぶ』(東急エージェンシー)の最終章「ライフスタイル」に全文収録されています。