月光は慈悲の見える化

 拙著『図解でわかる!ブッダの考え方』(中経の文庫)にも書きましたが、仏教を開いた「お釈迦さま」ことゴータマ・ブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったそうです。ブッダは、月の光に影響を受けやすかったのでしょう。
 言い換えれば、月光の放つ気にとても敏感だったのだと思います。
 わたしは、やわらかな月の光を見ていると、それがまるで「慈悲」そのものではないかと思うことがあります。ブッダとは「めざめた者」という意味ですが、めざめた者には月の重要性がよくわかっていたはずです。「悟り」や「解脱」や「死」とは、重力からの解放です。
 東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。
 仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるでしょう。
 仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。「太陽と死は直視できない」という有名なラ・ロシュフーコーの言葉があるように、人間は太陽を直視することはできません。しかし、月なら夜じっと眺めて瞑想的になることも可能です。あらゆる民族が信仰の対象とした月は、あらゆる宗教のもとは同じという「万教同根」のシンボルなのです。キリスト教とイスラム教という一神教同士の対立が最大の問題になっている現代において、このことは限りなく大きな意味を持っています。
 ところで、『灯をたのしむ』(現代書林)にも書きましたが、わたしは天上より降り注ぐ月光を地上に降ろしたものがロウソクの灯ではないかと思っています。冠婚葬祭業を営むわたしは、結婚式でも葬儀でもロウソクが使われることを昔から興味深く思っていました。結婚披露宴では、キャンドル・サービスや、最近ではキャンドル・リレーといった演出も普及しています。葬儀はもちろん、法要や追悼式、供養祭などでもロウソクは欠かせません。
 さらに言えば、神道でも仏教でも儒教でも、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも、その宗教儀式においてロウソクはきわめて重要な役割を果たします。そういえば、ゾロアスター教という火そのものを崇拝する宗教もありました。
 火があらゆる宗教儀礼で使用されることはそんなに不思議なことではないのかもしれません。照明は火の模倣からはじまっています。焚き火以前にも、自然界には火山もありましたし、山火事のような自然発火もありました。そのように、もともと存在していたものを人間がコントロールできるようにして製品化し、生活に活かしてきたものがロウソクなどの照明です。
 そして、火とは何かと考えた場合、それは天上の太陽を地上に降ろしたものにほかなりません。世界中のあらゆる民族に共通した信仰の対象は太陽と月です。焚き火や松明が地上の太陽光なら、かすかなロウソクの炎は地上の月光です。月光は天国や極楽といった「あの世」を幻視させる力をもっています。宗教儀礼で使われてきたことは当然でしょう。
 信仰や思想が対立すれば戦争になります。でもロウソクは、あらゆる宗教や哲学を結びつけます。まさに平和のシンボルです。
 「和ろうそく」というものがあります。日本製のロウソクという意味です。日本には奈良時代に中国から仏教とともにロウソクが入ってきたとされます。
 しかし、和ろうそくの「和」には「平和」そのものの意味も込められているのではないでしょうか。和ろうそくに火をともせば、世界が平和になれば素敵ですね。
 ロウソクは自らの身を細らせて燃えるもの。自己を犠牲にして周囲を照らすものです。ただひたすら他者に与える存在であり、それはまさに「利他」の実践そのもの。
 そして、「利他」とは「慈悲」の別名ではないでしょうか。
 人間がみなロウソクのように生きれば、世界は平和になるはずです。そんな考えから、わたしは、「ムーンキャンドル"月あかり" 」を生み出しました。このキャンドルこそは、ロウソクが地上の月光であることをダイレクトに表現しています。
 わたしは夜空に月が出ていないときは、「ムーンキャンドル"月あかり" 」の灯をつけて、見える化された「慈悲」をながめます。
 なお、今回の「月光は慈悲の見える化」という言葉ですが、『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)などで使いました。

一条真也
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